2019.9.27開催! 福島の子どもたちを日本一元気に~日本の子どもたちの真の復興は福島から~ 菊池信太郎さん

今回のゲストは、郡山市内で小児科の医院を経営され、東北最大級の屋内遊び場「ペップキッズこおりやま」の立役者となった菊池信太郎さんです。「福島の子どもが日本一元気になることができたら、きっと日本全体に波及して、日本の子どもたちも元気になるだろう」と考える信太郎さんは「日本の子どもたちの本当の意味の『復興』を福島県から始めたい」をご自身の人生の達成ビジョンにされています。このビジョンを達成するための活動を3つに分類しています。

 

1.子どもたちを元気にする活動(子育ち支援)

子どもたちが成長発達するための居場所を提供する。たとえば「ペップキッズこおりやま」のような施設です。

 

2.保護者を元気にする活動(子育て支援)

菊池医院では「病児病後保育室」を整備。病気により幼稚園、保育所に通えない子どもたちを毎日10人くらい預かることで、

保護者が仕事をしやすい活動をしています。

 

3.関わる人を元気にする

菊池医院では保育所、幼稚園、学校などの施設に行き、関係者の悩みを解決することにより、

子育てに関わる方の力をアップさせる活動を行っています。

 

子どもたちが居心地良く、地域で暮らしていくためには、保護者が心地良くいなければいけないし、子どもが通う施設が居心地良くなくてはいけない。また保護者が働く企業が居心地よくなければいけない。最終的には地域、たとえばこおりやまという地域が居心地良くないと、子どもたちが居心地良くならない。ある意味、まちづくり的な活動を現在やっている信太郎さん。

その人生ストーリーとは? ターニングポイントはいつ、どんな形で訪れたのでしょうか?

東京生まれ、東京育ちの信太郎さんは、菊池医院の創立者である祖母をはじめ、父方の祖父も両親も医者という医療系家族の中で育ちました。日常会話も医療に関することばかり。子どもの頃のおもちゃは本物の聴診器でした。慶応義塾幼稚舎に入学後、エスカレーター式に高等学校まで進みます。その間、家族は仕事の都合で郡山市に移り住むのですが、仲の良い友だちと別れたくなかった信太郎少年は東京に残ることを決意。

 

「進路は好きに決めてよい」という親の言葉を真に受けて、航空会社に就職するつもりでいたところ「医学部に行かないのか!」と、まさかの言葉。仕方なく慶応大学の医学部を受験したものの不合格。父親に泣かれたときに初めて「まずいことしちゃったな」と思いました。

 

1年間の猛勉強のすえ無事、慈恵医科大学に合格。卒業後、慶応大学の大学院に進み、小児科の医局に入ります。入局後は重症患者ばかりを担当し、1週間自宅に帰らないということもよくありました。博士号取得のため2年間研究生活を送りましたが、研究者が自分に向いていないことを実感。人と関わる現場に戻ることを決意。2000年に栃木県にある済生会宇都宮病院に勤務。小児科専門医として、より専門性を高めるための本格的な研修を積むために年間1,000人の患者さんを受け持ちます。3~4日に1回、当直が回ってくるというこの病院は、医師の世界で「野戦病院」と呼ばれるほどの忙しさでした。信太郎さん35歳の頃です。とにかくたくさんの患者さんを診察し、

小児科医としての経験値をあげた当時、「自分はなんでもできる」と錯覚したこともありました。

 

さらに細かな研修をするため日本で唯一の国立の小児専門医院、国立生育医療センターの呼吸器科に所属。国内に数人しかいないという患者さんが来院する、このセンターで試行錯誤の毎日を送り「何でもできる」という思い上がりがたたきのめされ、「基礎からやりなおし」の、つらいけれど勉強になった5年間を過ごしました。

当初から「5年間勉強したら郡山に戻る」と考えていた信太郎さんは2010年、両親が経営する医療法人仁寿会菊池医院に入社。

初めて郡山市民になりました。しかし都内とのギャップがありすぎて、耐えられなかったと語ります。

 

「知り合いがほとんどいなかったので、自宅と病院の往復だけで毎日が終わった」

「好きなデパ地下や大きな文房具店もないので、週末に新幹線に乗って都内に行った」

「図書館司書の資格を取ろうと、通信制の大学に入学」

 

現実逃避には切実な理由がありました。入社後に少子化に伴う小児科医院経営の厳しさと菊池医院の内部的な状況に、改めて直面したからです。菊池医院は1948年、信太郎さんの祖母が郡山市に開業して以来、「すべては患者さんのために」「すべては地域のために」という理念のもとに運営してきました。最大の特徴は18床の入院患者を受け入れていたことです。しかし医療の発達と少子化の影響により入院患者は減っていきました。

 

ほかにも気になることはあり、手を尽くしてはみたものの空回り状態の中、2011年3月に東日本大震災が発生。菊池医院も損傷を受けます。菊池医院だけでなく、市内の他の病院の状況も同じでした。医療において、地域が「生きるか死ぬか」という瀬戸際に立たされたような状態の中、郡山医師会の会長職であった父親が地域の医療回復に奔走、菊池医院のことは信太郎さん一人に任された状況になりました。

 

病院経営だけではありません。「地震、津波と原発事故」という未曾有の状況下におかれた「外で遊べない子どもたち」には、思い切り遊べる場所が必要だという地域の人々の想いが結集し、構想から3カ月余りという異例のスピードで同年12月に「ペップキッズこおりやま」がオープン。発案者である信太郎さんは責任者になりました。

 

病院を経営しながら、ペップキッズこおりやまを運営しなければならない。小児科医として小児科医療の第一線の現場に身をおいてきたけれど、それとはまったく違う世界であり、常に不安と危機感の抱き合わせだったと当時を振り返ります。追い打ちをかけるように、

院長である父の病気が悪化。「病院をつぶすわけにはいかない」という両親の願いを受け、2014年に院長に就任。

 

 

医院をどういう形にしていくかという課題に正面切って向き合い、悩みに悩んだ結果、入院患者の受け入れ中止をはじめ、いくつかの院内改革を実行。医院創立70周年を迎えた2019年に「ロハスの考えを取り入れた医療機関になる」という新たなビジョンを掲げ、

日本大学工学部の先生方の協力のもと、ロハスの工法を取り入れた病院に改築中です。(2019年9月現在)

学生時代はパイロットになりたかった信太郎さん。今でもその夢は持ち続けていると半ば冗談のように言われながら、

人生観について、大切にしていることを語ってくださいました。

 

1.人生の残り時間を意識して、日々活動している

2.次の時代に引き継いでくれる人を育てたい。自分が一生懸命やってきたことを誰かに続けて欲しい。

自分に関わってくれた人の人生が豊かになるようにしないといけない。

3.関わった人たちの幸せにつながることを提供したい。

 

信太郎さんのお話をうけて後半は「ライフワーク」「使命感をもって自分がやりたいこと」をテーマに対話を行いました。

グループ発表後、改めて信太郎さんが話された言葉で締めくくりたいと思います。

~プロフェッショナル仕事の流儀の話から~

本人は、プロフェッショナルになりたいと思って仕事をしているのではない。仕事が楽しいし、おもしろいし、たぶん誰かの役に立つのじゃないかなという気持ちだけでやっているんですね。「じゃプロフェッショナルってなにか?」たぶんひと言でいうと、そのことをずーっと一生懸命考えていること。一生懸命考えていると、いろいろなアイデアが浮かんできたり、いろんなものができたり、いろんな出会いがでてきたりすると思います。とにかく自分が「いいね」と思うこと「やりたい」と思うことを24時間ずーっと考え続けること。

それが、その人の使命になっていくのではないかなと思っています。

聞き手:三部香奈

撮 影:武田悦江