2020.2.1開催 ―常にチャレンジ!二人三脚の農業経営 その先に見すえた未来とは?―  降矢セツ子さん

 

今回のゲストは郡山市田村町で農業を営む降矢セツ子さんです。

(有)降矢農園といえば、東北地方で初めてカイワレ大根の栽培を導入した大規模農家として知られています。しかし実際は1996年のO-157騒動における風評被害や、放牧養豚の初出荷を目前に控えたときに起きた口蹄疫、2011年の東日本大震災と、困難に立ち向かう日々の連続でした。農家に生まれ、農家に嫁いだ降矢セツ子さんが、夫と共に農業法人を立ち上げ経営する中でぶつかった幾多の困難を、どう乗り越えてきたのでしょうか。 

 

3人姉妹の長女であるセツ子さんは、子どもの頃から「農業をやる」と決めていました。中学卒業後は働き者の父親から農業を仕込まれます。父は跡取り娘に農業経営の話をし、「同志」として接しました。けれど母親には「お前は黙ってらっしゃい」と言うだけ。そんな母を見て「女はつまらないな」と思いながら育ちました。

 

高校に進学せず、農業を手伝うセツ子さんに父親は、若手農業者の勉強会である「4Hクラブ」への参加を勧め、そこで敏朗さんと出会います。敏朗さんのリーダーシップがあるところにセツ子さんは惹かれました。「すごくかっこいい人がいると思ったのね。素敵だなぁと思ったの。あははは…」と笑うセツ子さん。「私はこの人のところに嫁くから!」と言って義父母、義祖母のいる降矢家に嫁いだのは、セツ子さん20歳、敏朗さん22歳の時でした。

実家の倍の耕作面積をもつ嫁ぎ先は、葉たばこと養蚕、米作りをやり、忙しいときは人を頼んでいました。その人たちのお昼やおやつ、夕食の用意は嫁の仕事。農閑期の秋から春にかけて敏朗さんは出稼ぎにでます。降矢家の家計は舅が管理し、若夫婦はお小遣いをもらって暮らしていました。

その生活に転機が訪れたのは1980年から2年続きで起きた冷害でした。葉たばこも蚕や米の収穫量も例年の1/3以下に減ったのに、その前年に借金をして母屋を新築していた降矢家は、借金返済のメドがたたなくなったのです。「借金の返済はお前たち(若夫婦)がやれ」今まで家計をすべて握っていた舅の言葉に内心「ありえない」と思いながら、なんとか返済。ただ「こういう生活は続かない。なんとかしよう」と若夫婦は考えます。例えば…。

 

  ・仕事を酪農に変える

  ・米作の耕作面積を広げる

  ・農業規模を小さくして敏朗さん、セツ子さんが働きにでる

 

どの案にも無理があり、頭を抱えていたところに「カイワレ大根をやってみないか」と声がかかりました。借金をしてハウスを建てて、始めたのはいいけれど失敗。借金だけが残りました。このままではいけないと、敏朗さんは静岡にあるカイワレ農家に行き教えを請います。さらに借金をし、事業再開。初年度で億の売り上げを上げましたが、ハウス内の温度管理や人件費などにかかる経費が、思いのほかかさみました。またカイワレ農家の乱立により、送られてくる種の品質にもバラツキが。問題を一つ一つクリアし、カイワレ業界も落ち着いた頃、1996年大阪府堺市の小学校でO-157騒動が起きたのです。

 

給食で提供されたカイワレ大根が食中毒の原因ではないかと疑われ、売り上げは一桁下がりました。ピーク時に40人以上いた従業員を減らし、借金返済の工面をする毎日。それでも事業をつぶすことは考えませんでした。「『うちが悪いんじゃない。ごめんなさい』と言って自己破産する道もありました。けれどお金の返済を待ってくれた人もいたわけです。借金して事業を始めた私たちを応援してくれている人もいたわけです。そういう人の期待に応えたかった」とセツ子さん。O-157の件はカイワレ業界団体が国を提訴。2004年に最高裁で勝訴します。

セツ子さんの姿を見つけ、集まってくる豚たち (降矢セツ子さん提供)
セツ子さんの姿を見つけ、集まってくる豚たち (降矢セツ子さん提供)

2011年の東日本大震災と原発事故により、(有)降矢農園も多くの生産者さんと同様に苦難を味わいます。カイワレ被害の後、事業を見直しながら生産物を試していったセツ子さん。その一つに養豚がありました。そんなある日、カルビー元社長でNPO法人「日本で最も美しい村」連合副会長の松尾雅彦さんが農園を訪問。セツ子さんたちが飼う豚を見て、松尾さんが提唱する「スマートテロワール構想」にぴったりだと言いました。

 

スマートテロワールとは、地元でとれたものを地元住民が購入して支えていくという地産地消の考え方で、農・工・商業を兼ね備えた郡山市ならできるのではないかという、松尾さんの言葉がセツ子さんたちの励みになりました。(有)降矢農園では豆苗の根っこを豚に食べさせるので廃棄のコストがかかりません。地産地消の取り組みで地域が豊かになるという発想に力を得て、ワイン用のブドウ栽培も始めました。

 

 

農業の話になると本当に表情が生き生きするセツ子さん。改めて人生のターニングポイントを振り返ると敏朗さんと結婚したことだと言います。結婚したばかりの頃は「農家の嫁」として嫁ぎ先の地域の人からいろいろ言われ、落ち込むこともありました。そんなとき「小さな事で心を悩ますな。郡山市や福島県という大きなところで考えないとダメだ」と敏朗さんから言われ、自分が変わったと思います。

 

セツ子さんが「こういうことをやりたい」と言うと、敏朗さんが「こうしたら」「ああしたら」と言ってくれる。すると「そういう考えもあるよね」という気づきが生まれる。夫が自分をしゃべらせてくれる。自由にやらせてくれる。認めてくれているところがいいと言います。「女がちゃんと働くときって、男性の協力がないとできないし、男性がもっとがんばるためには女がもっと協力しなきゃいけない。男女の世界は、それぞれの強みがある。その強みをお互いにうまく引き出しあったらいいと思う」とセツ子さん。

 

波瀾万丈の人生を、笑いながらカラリと語る。そんな前向きさに「勇気をもらった」という感想が出ました。後半、セツ子さんを交えての対話では、農業のことをもっと知りたい、学びたいと熱心に質問する姿が見られました。


                                聞き手:武田悦江

                            撮 影:三部香奈