人生にはターニングポイント(分岐点)があります。1回だけではありません。何回でも訪れます。
そのことを意識して生きることで、人生の質もまた違ってくるのではないでしょうか。
今回は東日本大震災が一つのターニングポイントになったゲストを迎え、ゲストの人生ストーリーを聞きながら、
参加者自身も自分の人生を振り返り、将来を考えるきっかけにしてもらおうという目的で、
郡山市内にあるco-ba koriyamaで開催しました。
最初にお話を伺った天野和彦さんは現在、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任教授として学生の指導にあたっています。また震災後に設立された福島の復興に関わる最大の市民活動団体、(一社)ふくしま連携復興センターの代表理事でもあります。
大学卒業後、特別支援学校教員を15年経験したのち、県・教育委員会に所属。男女共同参画、生涯教育の全県的な推進を図ってきた天野さんは、東日本大震災発災時、県庁運営支援チームの責任者として県内最大規模といわれた「ビックパレットふくしま避難所」の県庁運営支援チームの責任者として常駐。避難所の運営にかかわりました。
■最初の転機
このような活動をされてきた天野さんですが、
実は高校受験に失敗したことを担任に報告した時、先生から告げられた
「俺の言うことを聞かなかったからだ」のひと言がきっかけで教師嫌いになります。
中学浪人も考えましたが、父から反対され高校進学。
その高校は「雨の日が好きだ。なぜならレインコートを着れば、高校の制服やボタンが見えないから。
どこの学校に通っているのかわからなくてすむから」と、同級生がつぶやくような学校でした。
■第2の転機
嫌々入学した高校でしたが、思いがけないことに素晴らしい教師たちとの出会いが待っていました。そのエピソードの数々を天野さんは次のように語り、私たちを「天野ワールド」に引き込みます。
●学力別に編成された基礎学力講座の放課後、何度教えても理解してもらえない生徒に対して「俺の教え方が悪いのかな」と泣く先生
●市内7つの高校の生徒会役員の会議で進学校の生徒から差別発言された事件の顛末。叱るどころか「よくやった」と教頭先生から驚きのひと言が
●進路相談で「和彦、何に興味があるのかな」と担任から聞かれた天野さん。「差別かな」と答えると「社会福祉って知ってるか?社会福祉というのは弱い人を守るための学問なんだ」と教える先生
■第3の転機
担任の勧めに従って東北福祉大学に進学した天野さんは
大学3年生になり母校に教育実習に行った時、職員室で交わされる生徒に関する会話や、
タバコを吸ったことで自宅謹慎になった生徒への処し方に「プロの教師」の姿を見ます。
実習で見た光景に感銘し、同級生の多くが福祉関係の仕事に就く中、大学卒業後教育の道へ進み、
養護学校の教員を経験後に自ら望んで所属した教育委員会で、社会教育実践をする中で自分の使命に気がつきます。
それは……。
天野さんの人生テーマの一つは「差別」であると明言されました。
それは中学時代、高校入試に失敗したときに言われた担任のひと言から始まりました。
次に「人権」。人権とは「生まれて来てよかった」と言えるような人生のことを指します。
誰もがそう思えるような社会を作るためにがんばっていくこと。それが、すなわち自分の使命であると。
使命がわかり「もうじきゴールだな」と思っていた時に東日本大震災発災。
奇しくも県内最大の避難所の運営責任者として、より深く、濃く「人権」に向き合っていくことになったのです。
現在59歳の天野さんの人生をたった40分で語っていただくのは、あまりにも時間が足りず、
しかも会話の合間に爆笑トークの「天野節」が入るため予定時間を20分もオーバー。
続いて菅波香織さんのお話を伺いました。
1976年、いわき市にある祖父がはじめた鉄工所で、菅波さんは三人兄弟の長女として生まれます。鉄工所の製品は、福島第1原子力発電所6号機にも納めていました。原子力発電所との関係は双葉郡だけではなく、浜通り全般が何かしら経済的恩恵に関わっていた。のちに大学進学のために上京できたのも、原発があったお陰だろうと菅波さんは振り返ります。
■第1の転機
小学校では友だち同士で得意な教科を教え合い、時にはカンニングをすることもありましたが、中学校入学後、最初のテストで学年トップの成績に。「あれ、私、頭がいいんだ」と初めて気がついた菅波さん。そこで彼女は大好きだったゲームを楽しむ感覚で、テスト当日までの計画を立て「100点をとりにいく!」という気持ちで勉強をしたそうです。試験勉強をゲーム感覚でやり、その成果が見えたら、それは楽しいに違いありません。誰もが、そう思いますよね。
ですから高校も、地元でトップの学校を目指したのは自然のなりゆきだったのでしょう。
ところが願いはかないませんでした。なぜならば地元でトップだった高校は当時、男子校だったからです。
「なぜ私は入れないの?」15歳の菅波さんが男女の「壁」を知った最初の転機は高校受験の時でした。
仕方なく2番目の高校に進学した菅波さんが、次に目指したのは東京大学です。星が好きで宇宙のことを学びたいと思い、東大の理科一類に進みましたが勉強でも挫折を味わいます。東大には頭の良い人がたくさんいたのです。3年進学時の学部選択も平均点が6点足りず、希望していた航空宇宙工学科に進めなかったとか。それでも念願の野球部のマネージャをやり、近くにあった東京ドームでビールの売り子のバイトをやるなど、それなりに充実した4年間でした。
卒業後、香料会社の研究職に。1つ上の先輩と23歳で職場結婚。翌年に第一子、次の年に二子が誕生しましたが…。
■第2の転機
仕事と家事と子育てを、すべて妻がやらなければならない矛盾。夫とは同じ職場でほぼ同じ給料なのに、子どもの発熱で保育所から呼び出されるのはいつも菅波さん。子どもの看病のために会社を休むのも菅波さん。家事もほとんど菅波さんの役目。実母が家事を完璧にこなす人だったこともあり「家事は女性がやるもの」という刷り込みと、しかし実際にはできないことのギャップに一番苦しんだのがこの頃でした。
当時の夫との関係性も悪かったことから、菅波さんは男女共同参画活動に積極的に参加。いち市民の立場よりも専門的な資格があれば発言力が増すと思い「自分らしく生きていけない人たちのサポートができたら」と、弁護士になるための勉強をはじめました。
その後離婚を経験し、子どもを連れていわき市に戻った彼女は法律事務所に勤務。そして再婚、独立。弁護士業務では主に離婚問題を担当し、ご自身の経験を活かしています。女性は、まだまだ差別的な場にいると菅波さんは思います。本来は「女性」というくくりではなく、みんなが生きやすい社会を作りたい。しかし数が多いのにも関わらず生きにくい人たちが多いと感じるのが「女性」であると。
■第3の転機は東日本大震災
東日本大震災発災後、菅波さんは仲間たちと一緒に「未来会議」を立ちあげます。
きっかけは平成24年にこども被災者支援法ができた時、「対話」という手法を使って福島県内各地でいろいろな住民の声を聞いたこと。
その場に菅波さんも参加し「立場を超えて、いろいろな人がお互いが感じていることを言葉にできる場」の凄さを実感。
「いろんな人がお互いのことを知ることができたら、もしかしたら言葉はもっと変わってくるかもしれない」
という思いが生まれたそうです。対話を通した場づくりは、今も続いており、さらに広がりをみせています。
天野さん、そして菅波さんのお話にはいくつか共通点がありました。「人権」「生きるということ」「教育」。
ただ、菅波さんの場合は女性であるだけに、より「性差」に重きを感じているように感じられました。
実は今回、お二人にご登壇をお願いしたのは、東日本大震災がもう一つのテーマだったので、事前のお打ち合わせまでお二人の共通点の多さに気づきませんでした。またお二人とも初対面ではなかったのに、お互いの話に共鳴されている姿が感動的でした。
参加された方々がお二人のお話に聞き入る様子も印象的でした。
熱量のこもったアンケートから抜粋すると、天野さんのお話の「生まれて来てよかったと、誰もが思えることが人権」が印象的で「破天荒だけど人情深い人」「飾らない内容の話が楽しかった」という感想が、また菅波さんのお話には「自分らしく生きることが大切だと改めて気づいた」「女性ならではの話を聞くことができて、ふに落ちた」という感想が寄せられました。
これからも定期的に、このような場をつくっていきます。ゲストにお招きした方の活動や生き方を通して、自分の人生を振り返る場を福島県郡山市から広げていけたらいいなと考えています。今後もこのプロジェクトを見守っていただき、ご関心あればぜひご参加ください。「語り場」を共に盛り上げる仲間が増えたらいいなと思っています。
聞き手:武田悦江
撮 影:三部香奈
語り場プロジェクト事務局
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福島県郡山市富田町字向舘
Yクリエイト 内
E-mail: kataribap@gmail.com
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